インタビュー② 実行委員長 谷津倉 龍三×ディレクター 小澤慶介 [21/10/2018]

富士の山ビエンナーレ2018のコンセプト「スルガのミライ」を巡る、本芸術祭ディレクターの小澤慶介氏と本芸術祭実行委員長の谷津倉龍三氏との対談第2回目は、それぞれが思い描くこの地の「ミライ」について聞いてみました。#私の考えるスルガノミライ

(静岡県文化プログラム 佐野直哉)

小澤:

谷津倉さんはこの芸術祭は誰に見てもらいたいですか?

谷津倉:

私は地域の人、ここで生活している人たちが、こんなところにとんでもないものが入っているし飾られているけど、芸術はわかんないけどなんか面白いなっていう感覚を持って欲しいと思っています。非日常的なものを見てもらって、違う空気がこの地域に入ってくれば、日常に流れている生活を、ちょっと変えられるかなあ、ちょっと寄り道をしてみようかな、そういう感覚や気持ちを生み出したいですね。

この芸術祭を通して思い描く未来

谷津倉:

この場所でどんなアートが生まれるか見てみたかったのが自分の本音です。あと、ビジネスをやっているので本業とは違うことも色々今までやって来たし、元々デザインには興味を持っていました。現代アートとは違うと思うけど、デザイン性は商品に要求されますよね。私たちが扱っている商材は仕入れて売る、と言う中間の仕事なので創造性がない、付加価値がつけられないんですよ。だから自分のところで何か作り上げたい、という思いもありました。ここから外に発信できる仕組みを作りたかったし、自分たちで発想して、形にするプロセスを蓄積できたらいいと思っています。

小澤:

谷津倉さんは芸術祭として割り切ってやっているので、アートのような即効性がないものを受け入れることの重要性を感じ取っているのかなと思います。デザインは消費されていってしまうものだけど、アートはすべて理解することができないからこそ記憶に残る、この地域でしか見られない唯一のもの、それは複製されてすでに知られたものではないからこその、何か変な感覚や印象を人々の心に残すことができる。

谷津倉:

ビジネスは芸術祭と別物だと思っています。現代アートという非現実的な部分って自分たちが見る機会はなかなかない。そこに関わっているだけでも満足というのは事実ありますね。

小澤:

逆に僕は、富士の地域の人たちにとってこの芸術祭が仕事につながればいいと思っています。地元の人たちで持続的に運営できるように。今はモノを作って売る時代ではないし、芸術祭があると、グラフィックデザインや商品のデザイン、など色々と展開できる。そういうことができるようになると、若い人たちの人口流出が今よりも緩やかになるのではないかと思います。若い人たちが、ここに住んでいいんだ、東京よりこっちのほうが面白い、と思えるのではないでしょうか。

谷津倉:

こういう場所って空き家とか空き店舗が増えてきているけど、逆に言えば過疎の町でなく、インフラが整っている場所であって、距離感も東京や名古屋に近いので、逆にオフィス的なものがシステムや環境が整えば、人は結構来るんじゃないでしょうか。私はもっとこの場所に可能性を感じています。現代アートを通して、会場を借りながら、古い建物が残っているエリアの魅力をもっと首都圏に発信すれば逆にこちらに流入する人が増える可能性も出てくるのではないかと。

小澤:

富士市の人は実際どう思っているのか気になります。率直に言うと、この街は、産業が強いからか、文化の薫りがほとんどしないところだなあと思っているんです。大きな会社が多くて、黙っていても中央からお金が落ちてくる地域という感じでしょうか。でもそうした状況は、おそらく人間の自発的に考えたり行動したりする力を奪い取りますよね。俺たちが創っていく、というような気力がなくなってしまう。こうした危機感を富士市の人たちはどれくらい感じ取っているんでしょうか?産業構造の転換期だからこそできることがあると思うのですが。

谷津倉:

今はもう完全にそういう産業構造って崩れつつあるし、製紙産業から観光に変わって来ていると思います。象徴する富士山を例えれば、一番身近に感じるのは富士宮市であって、富士市はあくまで通過点という捉え方をされてしまう。だから産業として観光が富士市に定着するのは時間がかかるとは思います。逆に文化という意味についてはほとんど考えてこなかった地域なので、旧富士川町と合併して、富士市は得したのでは?と思います。文化をそのまま差し上げたような合併でしたから。でも旧富士川町は、富士川の川向こうという見方をされていて、芸術祭に対しても興味が薄い。だから足を運んでいただいて、こういう町や文化が残っている、ということをアピールしたいですね。また富士市本町通りに残る古くからある加藤酒店など、良い活用方法をどんどん提案して行きたいと思っています。

芸術祭以外の富士に来るべき理由

小澤:

桜海老じゃないですか、やっぱり。でも今年は不漁なんですよね。気候の変動のためでしょうか。

谷津倉:

海の資源はどんどん減ってきて、自分の事業が立ち行かない、転業するレベルの現実が目の前にありますね。でも食というのはなくならないので、それなりに獲れるものに変わってくるかとは思いますが。あとはお茶の飲み比べですね。

小澤:

そうですね。

谷津倉:

それから路地など町の狭い場所に数年前から興味があって、観光地でもないけど、歩くと生活感が感じられる場所がどこの町にもあって、そんなところもぜひ歩いて欲しいですね。

あと蒲原ではイルカが食べられます。「イルカのすまし」って言います。なかなか噛み切れないから、別名で蒲原ガムって呼ばれています。イルカの外側の皮の脂肪部分を干して、塩漬けにするのですが、臭いが少しあるので味噌で煮て人参と一緒に食べます。

あなたにとっての「スルガノミライ」

小澤:

わからないからそれを作品に託しているかもしれません。もしかしたら前回の木内雅貴さんの作品が表現した縄文時代のようになっているのでは。人間が作った橋とかテトラポットなんかが残っていて、でも人がいない世界が広がっていたり。あとはいろんな国や文化が混ざり合って、もうここは日本とは呼べないところになっているかもしれませんね。

谷津倉:

自分がたまたま生きている時にこの地域で平成の大合併があったけど、これからもっと過疎化していく可能性は高いわけです。再度大合併、例えば富士市と静岡市のような、もっと広域的な大合併が生まれる可能性があるんじゃないか、と考えています。だからこそこういう場所に私がいました、っていう記憶が生き残っていて欲しいですね。

小澤:

大合併前の庵原郡(富士川町、蒲原町、由比町)が語られなくなっている気がしますか?

谷津倉:

しますね。

小澤:

谷津倉さんのアイデンティティが揺らいでいますね。

谷津倉:

私も遡って調べてみたいと思うのは、なんで富士川町が由比町と蒲原町と同じ庵原郡を作っていたのに、富士川町の電話番号は合併前の富士市と同じということですね。

小澤:

もしかしたら、フランスのアルザス地方のように、富士川町をめぐって戦国武将たちの時代から争いが繰り広げられたのではないでしょうか。

谷津倉:

複雑なエリアですね。学区も違っていて、富士川町から蒲原は越境ですから。

領地の取合いでもしたかもしれない。

谷津倉:

これからは静岡県も山梨県も一緒になって行くこともあるかもしれません。今はそれぞれで表富士や裏富士って名付けてるけど、合併したら象徴的な富士山がそもそも真ん中に来るわけで、表も裏も無くなりますね。

小澤:

ミライを語るとネガティブ気味になるのは、多分みんな考えている時間軸が一緒だからだと思うんですが、例えば今年の出展作家メランカオリさんは時間を捉える感覚が不思議で、星の巡りが基準になっていて、今を1600年と2400年の間の転換機と捉えています。そうした一般の人が思いもつかないような時間の尺度で未来を捉えることがあってもいいと思います。キュレーターとしては、ふだんとは違う感覚を呼び起こすものを入れたい、というこだわりもありますしね。